北海道は道北と道東の観光スポットやアウトドア、渓流と滝を紹介

幕末の探検家 松浦武四郎

幕末の探検家 松浦武四郎爺は1818年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂)出身。三重県の三大偉人の一人(松尾芭蕉・本居宣長)とも言われているが、彼ら程には知られていない。日本の歴史の中で探検家と呼ばれる人はそれ程多くは無いが、中でも松浦武四郎ほど広範囲に歩き、数多くの貴重な記録を残した探検家はいない。幕末には間宮林蔵をはじめ多くの和人が蝦夷の見聞録を残しているが、彼らは通過者としてアイヌ人を眺め生活様式や風俗等を記録に残している。中華思想に侵された彼らが蝦夷地を眺めているだけならば問題は無かったが、統治するとなれば話は別で、行きつく先は他民族の教化と文化の抹殺、それは同時にアイヌ苦難の歴史でもあった。

松浦武四郎はアイヌを「皇国の臣民」として把握し、独自の民族という視点に欠けていたのが教化、介抱を正当化することになり、彼が抱え込んでいる自己矛盾のように見える。これがのちに日本は単一民族国家であるという過ちを助長したように思えてならない。視点を変えてみるとアイヌ独自の文化を認め、アイヌの生活基盤を侵さないという松前藩の対アイヌ政策の方が理にかなっているのだが、松前藩の財政再建で民間丸投げがアイヌの生活基盤をことごとく破壊してしまう結果を招いた。江戸幕府は松前藩のやり方を否定しアイヌ民族と文化を未開、野蛮と決めつけ教化、介抱が必要としたことが最大の問題なのだと思う。その政策を引き継いだ大日本帝国によってアイヌ民族と文化は完全に否定されたのであって、松浦武四郎の意図とは関係なく、大きな歴史の流れの中で見るならアイヌ民族の衰退を加速しただけではないのかという疑念を払拭できないのだ。ただ松浦武四郎は蝦夷の利権を牛耳る商人達によってもたらされたアイヌの惨状を直視し、このままではアイヌ民族は遠からず滅んでしまうと心を痛め。和人として唯一アイヌの目線から豪商たちの不正を告発し、時の政権に改善策を進言し救済を求め続けた人である。幕府役人としての限界が見え隠れはするが、その行動と精一杯の誠意、類い希な人間性は同じ和人として誇りでもあり、現代を生きる我々も見習うべき事が多い。松浦武四郎は探検家でルポライター、心優しき自由な旅人でアウトドアの超人、そしてアイヌ民族の友で有った。

松浦武四郎の記念碑を巡る

幕末の探検家で膨大な旅日誌を残し、北海道では出身地の三重県よりも有名人かもしれない。道内各地には松浦武四郎の業績を称えた各種の記念碑が有るが、ここでは道北と道東に存在する碑をメインに紹介している。松浦武四郎の碑には【1】蝦夷地調査時の通過もしくは宿泊地点を示す碑や標柱のみで説明はなし。【2】説明は有るが北海道の開拓に貢献したという側面だけ評価しているタイプの碑や像。【3】説明で先住民族であるアイヌの苦難の歴史にも配慮した碑や像、説明板等3タイプに分けることが出来る。早くに建立されたのは【1と2】のタイプが多い。【3】のタイプは先住民族の権利に関する世論の高揚や、松浦武四郎の丁巳日誌(丁巳東西蝦夷山川取調日誌)、戊午日誌(戊午丁巳東西蝦夷山川取調日誌)が昭和年代後半になって一般の目に触れるようになった事が大きいのかも、また武四郎によるとアイヌに対する非道な扱いを告発していたオホーツク海岸と根室半島には碑が極めて少ないというのも気になるが、オホーツクに関しては一般向けの日誌が未刊(既刊の西蝦夷日誌続編でオホーツク部分は武四郎蝦夷地紀行として昭和63年に初めて発行公開された)であっ事と関係あるかもしれない。そんなところにも注目しながら武四郎の碑を巡ると北海道の別な歴史が見えてくるかも。歌碑の殆どは石狩日誌、天塩日誌、十勝日誌、夕張日誌、納沙布日誌、知床日誌からであり、早くに建立されたタイプの碑などの説明も是によっている。と云うことで出来るだけ丁巳日誌や戊午日誌から引用して補足した。

天塩川歴史紀行の説明板について

北海道開発局の設置した天塩川歴史紀行の説明板は天塩川流域に7ヶ所あり、宿泊日と宿営地は「天塩日誌」で統一されています。「天塩日誌」は興を添えるためのフィクションにあわせ宿泊日が調整されているため、実際の宿泊地と宿泊日(天之穂日誌)との間にズレがあります。そのため僕の頭の整理もかねて比較用に一覧にしてみました。以前から天塩川流域にある松浦武四郎の記念碑や説明板を全て合わせると18ヶ所、24基になります。


「天塩日誌」での宿泊日と宿営地

天塩日誌による往路(天塩川遡航)

※天塩川歴史紀行説明板での宿泊日と宿泊地

6月6日・運上屋泊
6月7日・サコカイシ・野営
6月8日・ヲンカンランマ・野営
6月9日・ホロヒリプト・野営
6月10日・アベシナイ・野営
6月11日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月12日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月13日・ヘンケニウプ・野営
6月14日・ナイフト・アベルイカ家泊
6月15日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月16日〜6月17日・サンルベシベ・仮小屋泊
6月18日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月19日・ナヨロ・アベルイカ家泊
6月20日・ケネフチ・ニシハコロの漁小屋泊
6月21日・サクテクベツ・ルヒサンケ留守宅泊
6月22日・トナイタイベ・野営

天塩日誌による復路(帰路)

6月23日・ナイタイベ・野営
6月24日・サクテクベツ・ルヒサンケ留守宅泊
6月25日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月26日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月27日・オニサツベ・アエトモ家泊
6月28日・ペンケナイ・野営
6月29日・タカヤシリ・野営
6月30日・テシオ・運上屋泊


丁巳日誌(天之穂日誌)での宿泊日と宿営地

天之穂日誌での往路(天塩川遡航)

6月8日・テシオ・運上屋泊
6月9日・ヲタシウシ・野営
6月10日・ホロヒリプト・野営
6月11日・ツウヨイ・野営
6月12日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月13日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月14日・ヘケルル・野営
6月15日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月16日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月17日・サンルベシベ・丸小屋
6月18日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月19日・リイヤニ・ニシハコロの空室泊
6月20日・サクテクベツ・ルヒサンケの留守宅泊
6月21日・トナイタイベ・仮小屋泊

天之穂日誌での復路(帰路)

6月22日・サクテクベツ・ルヒサンケの留守宅泊
6月23日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月24日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月25日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月26日・ホロヒリプト・野営
6月27日・サコカイシ・船中泊
6月28日・テシオ・運上屋泊


※宿泊日は旧暦表示です

旧暦の6月8日は新暦の7月28日です
旧暦の6月28日は新暦の8月17日です。

松浦武四郎像と歌碑 天塩町

松浦武四郎像と歌碑

天塩町のアウトドアスポット鏡沼海浜公園の駐車場正面に、蝦夷地の全貌を明らかにし膨大な資料を後生に残した功績を称えて天塩町が建立した松浦武四郎像と歌碑があり、天塩の渚と利尻山を眺めるように立っている。松浦武四郎は1846(弘化3)年と1856年から1858年にかけ天塩には4度訪れ、1857(安政4)年の天塩川探査行の起点となった。歌碑には天塩日誌の題字と天塩にちなんだ和歌が二首『蝦夷人のみそぎなしたる天塩川今宵ぞ夏のとまりをばしる』『ながむれば渚ましろに成にけりてしほの浜の雪の夕暮れ』と刻まれている。正面からの写真はオロンライン-鏡沼公園の方で◇天塩町更岸 天塩川河口鏡沼海浜公園

天塩川歴史紀行説明板 テシオ

武四郎・天塩町

北海道開発局設置が設置した七カ所の一つで、天塩川歴史紀行説明板で天塩川最下流の天塩川河口、カヌーポートにある。カラー印刷で松浦武四郎の写真も掲載したスチール製の説明板で耐食性もかなり良さそうです。天塩日誌を訪ねてのサブタイトル通り、安政4年に流域を知り尽くしたアエリテンカ、トセツ、エコレ、トキコサンの案内でこの天塩川を踏査した経過の概要を記したある。説明内容は一般的に知られている「天塩日誌」を元にしたもので判りやすい。何よりも大勢の人に眼に触れるところにあるのが嬉しい。以後は此のタイプの説明板は天塩川歴史紀行説明板で統一します。天塩川歴史紀行説明板では「天塩日誌」を元にし宿泊地と宿泊日を統一して有り、実際の宿泊日や宿泊地とは異なっている事が多いので多少混乱するかも。記事では実際の宿営日と宿営地で統一しました。詳しくは丁巳日誌でご確認を。◇天塩町 天塩川河川公園 N44°53’07,6” E141°44’29.7”

天塩川歴史紀行説明板 サコカイシ

武四郎と幌延町松浦武四郎は天塩川踏査で上流へ遡った第1日目(6月9日)はサコカイシで昼食を、帰路(6月27日)はサコカイシ川口で宿泊するが蚊が多く船を浮かべてその中で寝たという。サコカイシは天塩大橋の約1.8km程上流左岸に注ぐ作返川河口付近と思われるが、至る所でショートカットされ作返川も下流部は直線化されているので当時とはかなり河口の位置が変わっているかもしれない。草の伸びる前は近づくのは可能かもしれないが、確実なのはカヌーと云うことになりそう。そんな訳で天塩川歴史紀行説明板は幌延町の総合スポーツ公園に設置されている。◇宿泊地 天塩町作返 作返川河口付近 ◇位置情報 N44'59'26' E141'50'16'

天塩川歴史紀行説明板 ヲタシウシ

武四郎・雄信内

宿営地は(6月9日)丁巳日誌はヲタシウシ、天塩日誌ではヲンカンランマとなっている。ペンケオートマップ川の支流だった千曲川河口付近の宿営と思われるが、今の千曲川は放水路で安牛駅付近の天塩川右岸に直接注いでいる。実際の宿営地は安牛付近より南幌延寄りになると思われるが、説明板では宿営推定地を安牛付近としている。ここも陸路で近づくのは困難で確実なのはカヌーとなりそう。安牛駅付近からは利尻山が見える所があります。この辺は天塩川の蛇行が激しい所でショートカットで取り残された三日月湖が数多く残されている。天塩川歴史紀行説明板は人目につくよう、国道40号線が雄信内(オノブナイ)川を越える栄橋上流側の左岸堤防上に設置。◇天塩町雄信内 標高 16m N44°53’48.2” E141°55’26.2”

松浦武四郎宿営推定地 ホロヒリプト&ツウヨイ

中川町には宿営地を示す記念碑などは無いが歌内の歌内橋上流右岸の支流(上水道の沢)河口付近(ホロヒリプト)で往路(6月10日)と復路(6月26日)に野営、野営地付近は歌内橋から目視可能な距離。ツウヨイ(富和トンネルより中川市街寄りに2番目の沢、二股川河口付近?)は往路(6月11日)に野営、疲れはて全員が爆睡していたところをアベシナイの老アイヌ、カ子アンホに起こされたと日誌に記している。未確認だが佐久の安川自然公園に武四郎に関連する表示板があるという。※中川町歌内・中川町富和

北海道命名の地 音威子府

武四郎と北海道命名の地

松浦武四郎は全道各地に足跡を残しているが、安政4年(1857)年に天塩川を遡行、石狩川上流への踏査をしているが、その調査内容を天塩日誌に残している。武四郎は調査の帰路にトンベッポ(筬島地区)のアイヌのコタンに立ち寄りアエトモという古老(エカシ)に「カイナー」の意味を尋ねたところ「カイ」は「この国に生まれたもの」「ナー」は敬語という事(言語学者は否定、普通は男性の尊称との事で古老アエトモの物語か?)を知る。明治2年(1869)に明治政府から蝦夷地命名の任を受けた武四郎は古老アエトモから聞いた話を元に「蝦夷自らの国を加伊という」旨の熱田大神宮縁起を重ねて「北加伊道」としたのだろうか? 武四郎は北加伊道、日高見道、海北道、海島道、東北道、千島道の6候補を挙げたが、明治政府は「北加伊道」を採用し東海道、西海道の例に倣って「加伊」を「海」に改め北海道が誕生する。北海道の海には「北のアイノの国」という想いが込められ、古老アエトモと松浦武四郎の出会いが有って産声をあげることが出来た。(北海道は水戸の徳川斉昭が幕府に建言していたと云う)国道40号沿いの筬島橋から稚内方面に約1km走ると電光掲示板と武四郎の看板が見え、看板を右折、500m程先に碑と略年譜がある。◇音威子府村字物満内 ◇位置情報 N44'44'25' N142'11'4'

松浦判官宿泊聴佛法僧之地 音威子府

武四郎と筬島

国道40線から筬島大橋を渡り舗装路を進んでいくと踏切となるがその手前の角地に標柱がある。安政4年(1857)年の天塩川上流域を踏査時、武四郎一行はトンベツホ(ペンケオニサベとも)にてアエトモ家に泊まる予定だったが惨状を見て諦め、少し遡って案内人の一人トセツの妻が遊びに来ていたというトチノキの家に宿泊(6月12日)。復路はアエトモ家に宿泊(6月25日)したと天塩日誌にあるが、丁巳日誌によると実際はトチノキの家に宿泊しアエトモ家を訪ね色々と話を聞いたことになっている。宿泊した夜に「ホッホッホッホッと啼鳥有」家主のアエトモが「「最上ニシハが内地にもいる仏法僧という鳥だと言っていた」と云い、武四郎は初めて仏法僧と云う鳥の鳴き声を聞いたというが、実際はコノハズクらしい。最上ニシハとは幕臣近藤重蔵らと千島を探検し、9回にわたって北方探検にあたった最上徳内の事。※2014年春に訪問した時は史跡表示板が外されていた。理由はわからないが手違いであることを祈っている。◇音威子府村字筬島 ◇位置情報 N44'44'28' E142'11'27'

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