北海道は道北と道東の観光スポットやアウトドア、渓流と滝を紹介

天塩川歴史紀行 近藤重蔵ゆかりの地

天塩川歴史紀行

道東厚岸や黄金道路沿いには近藤重蔵の碑は多いが内陸部では珍しいかもしれない。1807(文化4)年の秋、近藤重蔵は西蝦夷地を巡った後に利尻島へ渡るつもりであったが荒天で断念し、天塩川を遡り剣淵、和寒、比布付近を通過して石狩に抜けたという。その道筋はある程度「天塩川川筋図」で知る事はできるが、天塩越しとなるとすっきりしない。上士別から愛別川を経て石狩川を下り神居古潭に至ったと言う話もあって本当はどうなんだろう〜和寒に関しては明らかな記録は無いようですが、昭和の初めにマタルクシュ・ケネフチの土木工事の時に一振の脇差が発掘され三葉葵の紋(徳川将軍家の紋)が彫られた鍔がついていたとのことで「近藤重蔵が天塩川、和寒川と、遡って来た時、同地で供の者が病没、その死をあわれみ脇差もろとも埋葬した」というのが此の「近藤重蔵ゆかりの地」ということです。◇和寒町 塩狩峠付近

英傑シャクシャイン像

シャクシャイン像

碑文で説明にかえます。「日本書紀によれば、斉明の代(西暦650年代)において、すでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。今から約300年前、シャクシャインは、ここシビチャリのチャシ(城砦)を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。当時、自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、松前藩政の非道な圧迫と苛酷な搾取は日増しにつのり同族の生活は重大脅威にさらされた。茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民俗自衛のため止むなく蜂起したが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。しかし志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文9年エゾの乱と言う。いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがすると共に父祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。1970年9月15日 シャクシャイン顕彰会 会長神谷与一」◇新ひだか町静内真歌441 真歌公園内

旧ムリイ(武利)駅逓所

旧ムリイ(武利)駅逓所

丸瀬布上武利に有る神居滝簡易郵便局の北側にかつてムリイ駅逓所だった施設の一部(二階部分)が住宅として活用されていた。上藻別駅逓はこのデザインを一部採用しているというが、トタンが張られ外側からでは元型が正確にはわからないが、美深の駅逓に似ている印象。現在は無住の館となっているが管理はされている様子だが非公開です。ここはかつて湧別アイヌ一族のコタンがあった所で近くにカムイコタンの碑が有る。◇現住所:遠軽町丸瀬布上武利

旧温根別北線駅逓所(士別市)

旧温根別北線駅逓所

道道251号線沿いに駅逓制度が終了した昭和22年迄残っていた駅逓で現存する旧駅逓舎。道道の改修工事の時に若干移動し、一部改築されて残されたという。駅逓の特徴的なデザインとはやや異なるが当時の様子がうかがえる。ただ痛みは相当で俗に言うナマコ鉄板で覆われたりシャッターの付設などかなり様変わり、一応駅逓を示す標柱が立っている。◇現住所:士別市温根別北18線

旧川端駅逓所(美深町)

旧温根別北線駅逓所

現役でアパートとして使用されている美深町に残された明治唯一の建築物らしい、その意味ではかなりインパクトはある。ただ駅逓舎としてみると外観は化粧トタンに覆われ、窓はアルミサッシに変わっていて、かつての駅逓の面影は残しているも、その形状から駅逓を想像することは出来ない。国道沿いで美深町北四丁目の信号前の角地で、吉田鉄工場に隣接する。昔は駅逓の看板が有ったと云うが今は何もない。昔の話を聞きたければ宮岡食堂で聞かれるとよい。ここのラーメンはお勧めです。

忠別太駅逓第一美英舎

忠別太駅逓第一美英舎

明治19年に上川郡農作試験所事務所として建設され、明治20年に樺戸監獄署に移管された後、明治22年に官を辞して、明治22年人馬継立兼宿泊所の設置を道庁に請願し岩見沢、奈井江、空知太、音江法華、忠別太の5駅逓の一括取扱人に任ぜられ、第一美英舎から第五美英舎と命名し営業を開始した。認可を受けた高畑利宜貸し下げられの忠別太の建物は第一美英舎となる。忠別太第一美英舎は鉄道開通で明治36年の駅逓廃止となる迄まで物資輸送と交通の要であった。建物は上川地方に現存する最古の建物で、昭和62年解体調査。昭和63年現在地に復元展示される。また旭川地方気象台の前身で、明治21年開設の上川二等測候所でも有るが、明治23年に独立移転している。◇現住所:旭川市神居1条1丁目 1-30

旧斜里駅逓所

旧斜里駅逓所

斜里場所の場所請負人であった藤野家の番屋がもとになった駅逓で、斜里から越川を経て峠越えで標津、別海を経て根室に結んだ。旧駅逓は番屋形式の駅逓だったようで、市街東部の星印刷所向かいに建物が現存しているが補修を繰り返し昔の面影はあまり残っていない、民営の倉庫として使用されており内部は非公開です。昭和4年の鉄道開通で駅逓所廃止。知床博物館・学芸員のお話では運営の実態がよく分かっていないとの事だった。近い位置に「シャリ運上屋(会所)跡」がある。いずれも知床博物館から徒歩圏内です。

塘路駅逓所(標茶町)

旧塘路駅逓所

標茶の塘路駅近く旧釧路集治監本館(標茶町郷土館)の右横に塘路駅逓が復元保存され夏季限定で中をオープンしている。旧塘路駅逓はかつて塘路湖畔漁業番屋、越善啓作宅だったもので、標茶町内にあった14駅逓のうち唯一現存する建築物であり標茶町指定有形文化財。旧塘路駅逓は開駅から40年ほど駅逓として活用されていが鉄道開通のため廃駅となった。二代目取扱人の越善啓作は遠矢駅逓所の四代目取扱人としてもその名がある。番屋形式の駅逓はここと斜里だけと思うが、公開されているのは塘路駅逓だけ。◇所在地:北海道川上郡標茶町字塘路

武佐駅逓所 (北村家住宅)

旧武佐駅逓所

大正5年10月に現上武佐地区に官設駅逓所として開駅、昭和2年に武佐中央地区に移築。駅逓所の移築に合わせて、駅逓所建造物の右側に木造2階建ての泊施設宿が併設される。昭和6年に武佐官設駅逓所が廃止となり、伊藤正信氏に無償付与され以降は民営駅逓所として運営され、昭和11年に土田有一氏に所有となる。国鉄標津線の開通により上武佐地区にふたたび移築、駅逓所は廃止。昭和12年から移築した駅逓所を活用し「土田旅館」営業開始、昭和60年廃業。平成13年に所有者が代わり大正11年建築の駅逓所部分は解体され、昭和2年に併設された宿泊施設部分が一般住宅として活用されている。中標津町で最古の建造物で国の「登録有形文化財」です。◇所在地:標津郡中標津町字武佐957-6 ※個人住宅・非公開

登録有形文化財 旧幌向駅逓所

旧幌向駅逓旧幌向駅逓所は明治45年4月松田与三氏によってこの場所に開駅(官設駅逓としての認可年?)されと有るが、北海道宿駅(駅逓)制の研究では開始年が明治42年と異なっておりい、私設駅逓間期間が有ったものかそれとも本格的な稼働は明治45年からという事なのかは管理人にはわかりませんが、交通不便な地帯の文化の発展に大きく貢献したことは間違いない。かつてこの地域は水害の常襲地帯で駅舎の土台が高く、内部の床もかなり高くなっているのが特徴です。昭和5年の夕張鉄道の開通に伴い、昭和6年11月廃止となっている。 平成18年登録有形文化財に登録され、駅舎前に登録有形文化財の記念碑がある。駅舎内には「先祖の仏壇を置いてあるだけ」「文化財に指定されても何もいいことは無い」と管理人さんが呟かれていた。◇現住所:南幌町元町3丁目3-19

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