北海道は道北と道東の観光スポットやアウトドア、渓流と滝を紹介

トコンマ沢・紅すずらん伝説の概略

『厚真の北部(現・厚真町富里地区)に、平和なトンニカコタンがありました。このコタンも敵の侵略に悩まされて、平和な夢もかき消される日がやって来ました。日高ピラトリコタンに攻められ、トンニカコタンのオタクミエカシはトンニカコタンを守るため、部下を率いてこれを防戦し奮闘したが、ついに流矢(タシロとも)に当たってしまいました。死の間際に一人の娘トコンマを呼び、血に染まったタシロを渡しあだ討ちを頼んで息を引き取りました。トコンマは父の仇を誓い残兵を引き連れて再度戦いを挑みますが捕われてしまう。トコンマは敵から開放されるが、あだ討ちの誓いを果たせなく無念に思い、胸元にタシロを突き刺して自害する。この胸からはなぜか不思議に滾々と真っ赤な血が流れ続けて、やがてその血が沢を築いて、その沢に紅色のスズランが咲く。』
※鈴蘭に関する伝承として更級源藏氏が長い間採集して歩いた伝承の中でたった1つだけだったという「絵鞆と黒岩の争い=アイヌ伝説集」をのこしている。伝説の内容に関して日本人的な創意が感じられるが、話してくれた古老は決して嘘を言うような人ではないので伝承して残しておくとコタン生物記気能劼戮討い襪「絵鞆と黒岩の争い」は鈴蘭で紅鈴蘭ではない。トンニカコタン(厚真町富里)の紅鈴蘭に関する伝説は古文書 蝦夷記からとの事らしいが、この伝承の「自害」という結末も日本人的な創意が感じられるという意味では同じ、和人好みで違和感がありどこまで本当か微妙。どちらもコタン同士の争いが元で起きる悲劇という部分は共通している。恵庭の「紅すずらん」はトンニカコタンの伝承が元になっているようです。幕末の探検家松浦武四郎がトンニカコタンに二泊し当地の神様のカモメ伝説を残しているが紅鈴蘭に関する記録はない。函館市銭亀沢などの紅すずらんの伝説は青木純二著「アイヌ伝説とその情話」にある創作伝説「血に咲く鈴蘭」がもとになっておりアイヌ伝説とは異なるもの。「血に咲く鈴蘭」を元にして色々なパターンができているようですが悲恋伝説という部分が共通する。

雨竜ウエンコタン

『大昔、このあたりには、何百人ものアイヌが住むコタンがあった。ところがある時、ホウソウがはやってコタンの人は、みな死に絶え、広い原野にはネスコ(クルミ)という実のなる木ばかりが茂る土地となった。そしていつの時からか、「トイケップ トィォ」(死んだ人に土かけろ)」と鳴くハトが住むようになり、このハトが鳴くと必ず人が死ぬようになった』砂沢クラ・タスクップ オルシベ 私の一代の話より※砂沢クラさんは「何百人ものアイヌが死んだのに、死人に土もかけず弔いもしなかったので、ハトがこんな風に鳴くのでしょう」と記されていた。

大地と人間の創造(仮タイトル)

『昔この世に国も土地もまだないとき、ちょうど青海原の中のうき油のようなものが出来、これがやがて火の燃え上がるように、まるで炎が上がるように立ち上って空となった。そしてあとに残った濁ったものが次第に固まって島となった。島は長い間に大きく固まったのであるが、その中もやもやした気が集まって一柱の神が生まれ出たという。一方の炎が立つように高く昇ったという、清く明らかな空の気からも一柱の神が生れ、その神が五色の雲に乗って地上に降ってきた。この二柱の神たちが、五色の雲の中の青い雲を海の方に投げ入れて「水になれ」というと海ができた。そして黄色の雲を投げて「地上の島を覆いつくせ」と、赤い雲を投げ入れて「金銀珠玉の宝物になれ」と、白い雲で、草木、鳥、獣、魚、虫になれ」と、それぞれの物が出来上がったのであった。そのあと天の神と、地の神の二柱の神たちは「この国を統率する神がなくては困るが、どうしたものだろう」と考えていられるところへ一羽の梟が飛んできた。神達が「なんだろう」とその鳥が目をパチパチしてみせるので、これは面白いと二柱の神たちが何かしらをされ、沢山の神々を産まれたという。その中でヘケレチユツフ(日の神)クンネチユツフ(月の神)という二柱の光輝く美しい神々は、この国(タンモシリ)の霧(ウララ)の深く暗いところを照らそうと、ヘケレチユフはマチネシリ(雌岳)から、クンネチユフはヒンネシリ(雄岳)から、クンネニシ(黒雲)に乗って天に昇られたのである。またこの濁ったものが固まってできたモシリ(島根)の始まりが、今のシリベシの山(後方羊蹄)の山であるという。また沢山に生まれた神々は、あるいは火を作ったり、あるいは土地を司ったりする神となった。火を作った神はすべての食糧、粟や、稗やキビの種子を土に蒔いて育てる事を教え、土を司る神は草木の事すべて、木の皮を剥いで着物を作ることなどをお教えになった。そのほか水を司る神、金を司る神、人間を司る神などがいて、鮭をとり、鱒をヤスで突き、鰊を網で捕ったり色々と工夫をして、その子孫の神々に教えられたのである。』松浦武四郎・夕張日誌現代語訳より。※ユウバリのタッコブというところで泊まった時にコトンランというエカシより聞いた話。タイトルは原文にはなく仮に付けたものです。

天塩町・岩になったユリカ

須原角兵衛が天塩に運上屋を設けてから後の話と云うことです。『当時天塩アイヌの首長はキスリという人でしたが、その一人娘にユリカという評判の美人がいました。その美しい声と容姿の端麗さは他に比類無く、遠く上川、留萌、増毛までも噂は伝わっていたそうです。天塩川河口へ弁財船が入港してくると、コタンは上を下へと大賑わい、アイヌの娘達もお祝いの踊りを披露したければなりません。なかでも際だって美しいユリカの踊りに、運上屋で働く一人の和人の青年が深いため息をもらしました。そして同様に、このりりしい顔立ちの青年も、ユリカを愛してしまったのです。やがて、二人は人目を忍ぶ仲になりましたが、青年は定められた期間を勤め上げれば、天塩を去って再び内地の方へ帰って行かなければならないことになっていたのです。そんな運命の二人が、さらに愛の炎を燃やしたのも当然のことだったのでしょう。川口に冷たい風が吹き、原野にリンドウの花が咲く頃、最も二人が恐れていた迎えの弁財船がやってきた。青年は親方に強く促され、手足をつかまえられて船上の人となりました。そして、砂丘から遠ざかる船を見送るユリカの姿が、いつまでもいつまでも動きませんでした。夜になって急に天候が変わりました。間もなく「コタンからユリカの姿が見えない」と叫ぶ、老首長の声が悲しげに聞こえて来たのです。驚いた人々が河口から番屋の方まで、原野までもくまなく探し廻り、時化の海に向かって声の限り呼びかけましたが、なんの応答も有りませんでした。翌朝は嘘のように晴れ上がった天気になりました。もう一度浜に出た人々は、そこに見慣れない岩を発見したのです。しかもその上には、見覚えのあるユリカのアッシが濡れたまま広がっているではありませんか。恋人を失ったユリカが悲嘆のあまり海に身を投げて、岩になったのであろう・・・と、人々は語り合ったということです。』高橋明雄・シュシュシナイの権六狸・・因幡勝雄編・アイヌ伝承はなし集成より。

豊富・若咲内のヲフエニシヤ

『ヲフエとは焼る、ニシヤとはうど木(空洞の有る木の事)の事なり。』『当所海岸砂地原也。已然大うど木有し所なり。蝦夷乱世の節、テシオ夷人一人宗谷にて目に矢を射られ、同所より逃げ帰り、右のうど木に入り焚火いたし凌居たる所に、風激しき折りにて右木焼失せしといひ伝の良し。故に名とす。』秦檍麿・西蝦夷地名解※寛文の乱と関係有りそうな伝説は少ないがこれはその一つかもしれない。ヲフエニシヤは地名としては残っていない。

遠別・ルベシの大山松の伝説

江戸後期以降の伝説とされている。ウエン・ベツ」とはウエン=悪い、ベツ=川という意味。流域の地形が変わるほどの暴れ川の河口にアイヌのコタン(集落)があり、ウエン・ベツアイヌは天塩や上川の人々との交流にウエン・ベツ上流を利用し、通称ルベシを主道としていました。『ある時、蝦夷地全域で天然痘が流行し、ウエン・ベツコタンでも発病者が出たため、コタンの酋長は天塩アイヌに薬草の譲渡を請うため、若者ポロカセを使者に命じます。決死の覚悟で出発したポロカセの恋人ジュカイはルベシの丘に立つイチイの木にアツシ織の衣を吊るして、恋人の無事を祈り続けました。その願いが通じ、ポロカセは薬草を持ち帰り、二人はその後、晴れて夫婦になったそうです。』北海道開発局WEBサイトより※何度も書いているが恋愛がらみで実名の出てくる話は、その殆どは創作もしくは脚色されているというのが普通という。ただ巨木は地理的位置を確かめたり、狩猟の吉凶を占ったりする特異な存在であった事は容易に想像できる。それが和人の「山神信仰」に引き継がれ「神木」として大切にされたのであろう。

遠別町丸松の由来伝説 マルマウツ

『マルマとは鎧の草摺(鎧の胴に付属、スカート状について腰から上脚部を守る)の事なり。又身を隠して向を窺うというような意味なり。』『何れより来候ものや鎧の草摺一枚有之たる所也と云伝ふ』秦檍麿・西蝦夷地名解※ここでウツは一般的なアイヌ語と同じで脇川のこと特別な言い伝えは無い。この辺は釣りの隠れたスポットで利尻山の眺めもよいが移動が大変。

遠別川の言い伝え

『天塩山中の土人海浜に出て来たりて此處の土人と相話するを楽しみとす因多く和人「ウエンベツ」と称するは誤りなりと天塩の土人云う』北海道蝦夷語地名解・秦檍麿・西蝦夷地名解では連なる。松浦武四郎の蝦夷地紀行では鮭が遡上しないので悪い川と諸説有り。

初山別・風連別川

『フウレベツ・水底一帯赤盤也。故に名とす。赤き川という義也。又一説に当川上に赤きカムイ住居せしと往古よりいひ伝ふよし。故に名とすとも云ふ。其以前右カムイ、リイシリよりヲフエニシヤ江渡り、それより当川上に来るともいひ伝ふ由』秦檍麿・西蝦夷地名解※赤きカムイは宗谷の伝説を思い出させる。

初山別村のカムイコタン

『ヲマンパル 当所海岸出岬有。右出岬の内二間四方、奥行二三間位の岩穴有り。蝦夷共右の岩穴をカムイコタン江行道と言い伝う。故に名とす。』秦檍麿・西蝦夷地名解※正確な所はわからないが、今の豊岬付近の事と思われる。話の内容から比布のカムイコタンと同じ地獄穴の事か、それとも金比羅神社の鳥居が海中に有るところは、元々アイヌの人達が天候を急変させる魔神に木幣を捧げて祈願していたというので、魔神の居所なのかも?

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