北海道は道北と道東の観光スポットやアウトドア、渓流と滝を紹介

鹿鳴の滝由来

『昔鹿がアイヌに追いつめられ、チミケップを上流に逃れたが、この滝を越える能わずして鳴いたことから起こったといわれている』津別町史より。※原文は「土人に追いつめられ」となっていたので基本的には和人伝説(観光用?)ということになるだろう。元になっている話はあるかもしれないが、鹿が超えられないような険しい地形ではない。

美幌町 ライクンヌプリ(死人の山)

『昔、キタミアイヌが山を越えて侵入してきたとき美幌アイヌがこの砦に立てこもって勇戦奮闘し、敵を撃退したところであると伝えられ、或いは又、アイカルシ(兵器製作所)といって厳重な秘密の元におかれ外来者は入ることを一切禁じられ、一度この地に入ったもので再び帰ったものはなく、一般人からは魔の場所として恐れられ、ここに近づくものはなかったという。また付近一帯には黒曜石の小礫が散乱していたという。』初掲・美幌郷土史研究会・伊藤せいち・アイヌ語地名解網走川より。※緋牛内トンネルの南方にある小山にライクンヌプリという山があった。ヌプリというには高さはない小山ですが、そこに残された伝説です。話の元は菊池義之助エカシからの聞き取りのようですが、シュマサンニ「石を叩くもの」と称していたとも。

美幌町 コタンカラカムイの人創り

『これはうんと大昔のことだ。この世と天と地を作りあげようと、コタンカラカムイが朝から晩まで世つくりにいそしんだ。「やれやれ、くたびれた」コタンカラカムイは大きな山のてっぺんに腰をおろして、仕上げたばかりの、ほやほやのこの世を眺めわたしたが、ふっと浮かぬ顔になった。「どこが足りないのだろう。なんか足りない」あれこれ考えてみたが思いつかない。そこで、そばにいた夜の神様に「何か、お前の思いつくもんを創って、添えてみてくれないか」と言いつけた。しかし、言いつけられた夜の神様も、急にはよい考えも浮かんでこない。困ってしまって、しきりに首をひねりながら、足元の土をすくい上げて、手の中で丸めたり延ばしたりした。そのうちふと思いついて、柳の枝を折ると、細長く丸めた土の中に通し、一方にははこべを植え込んだ。それからそれを土の上に置いて、アユギ(使者を生き返らせる扇)でパタパタ仰いでいると、だんだん乾いてきて人間の肌になり、柳が背骨になり、はこべを植えたところが頭になってきた。夜の神様はそれを見て、すっかり嬉しくなった。そのできたての人間の体に「眠たい」とか「食べたい」とか、十二のいろんな欲の玉を入れ込んだ。コタンカラカムイも、この夜の神様の創った人間をとっても喜んだが、その人間たちは、どれもこれも男ばかりだったので、せっかく創っても、そのうちだんだん死んで、すっかり減ってしまった。それて゛コタンカラカムイは昼の神様にも相談して、人間作りをしてもらうことにした。すると昼の神様が創る人間はみんな女だったので、夜の神様の創った男といっしょになって、それから人間はだんだん増えるようになった。人間の男の肌が浅黒いのは、夜の神様が創ったからで、昼の神様が創った女の肌はみんな白い。また、人間が歳をとると腰が曲がるのは、柳の木を背骨に仕込んだので、この木が年老いてまがるからだ。だから、赤ちゃんを生んだ母親は、柳の木をとってきて、イナウと稗の酒を捧げて、守護神のイナウを拝む。さてこうして人間をうまく創りあげたので、夜の神様も昼の神様もコタンカラカムイにほめられて、天に昇ってお月さまとお日さまになったんだと』美幌町・菊池義之助エカシ伝・稲田浩二編・アイヌの昔話より。

雄武町・カムイシャマオイ

『雄武と元稲府の中間の稲荷さんの下の岬の名で、カムイ・シャマ・オマ・イとは、神の石のあるところという意味である。カムイとは神といってもありがたい神ではなく、むしろ魔神でこの岬を通るときに、この神石に祈願しないで通ると罰が当たるという、恐ろしいところであったとされる。現在は道路工事のために壊されて、神様らしい姿は見られないが、壊された後がはっきりしている。』更科源蔵・アイヌ語地名解 ※「罰が当たる」というよりは何か災いがあるという解釈の方がより解りやすい。

雄武・トンナイウシ

『島より爰え弓射たる故事有。』松浦武四郎・蝦夷地紀行(西蝦夷日誌)『永田方正の地名解には「神ガ弓ヲ引キタル岬、紋別アルトルコタンアイヌ、アクロート云フ。トンナイハ弓ヲヒクノ意」などとある。これはこの岬をクサンサイウシとも言ったらしいので、アクロー老人は弓を出すなどと訳し、弓を引いたなどと言ったかと思う』更科源蔵・枝幸町地名解 ※アイヌ民族はゴメシマを神聖視していた事と近年遺跡が発見された事をあわせて考慮し、古い松浦武四郎の「ゴメ島から爰に弓を射った」という記録を重ねると、ゴメシマに何か失われた伝説があったと考えた方が良さそうである。

雄武・月見草咲く沼

基本的には元あった物語や地名を素材に創作されたり、他地域の伝説を移入したと思われる伝説です。月見草咲く沼は創作要素の比重が強い代表的な例。要約して記しておきます。『オプコタンに残る伝説である。月見草がぽっかりと咲くと、月は白銀のような光を投げた。草には宝石のような露がキラめいた。若者と娘はいつものように沼のほとりに来た。彼らは幾度、この沼の水に光る月光を見ながら甘いうれしい逢い引きを重ねた事であろう<-中間省略->次の夜月見草がふるへ咲く頃、恋に死んだ男女の屍体が沼のほとりに浮き上がっていた。白銀の月の光にそそがれながら・・・』青木純一・アイヌの伝説 ※ストリー自体にも日本人好みに合わせた創作という事は感じ取れるが、致命的なのは「月見草」です。明治以降に日本に入ってきた外来植物で、同科の自生種はその頃の日本にはありません。創作にしても余りにもお粗末という事で。

雄武・オタヌプリのチャシ

『枝幸町の隣、雄武町の幌内川の川口附近は現在でも湿原であって、その湿原の中にオタヌプリと呼んでいる小さな砂の丘がある。そこは砦跡であって、ここを攻められたとき斜面に鮭の生皮を敷いてあったので、攻撃軍は滑って登れなかったともいわれている。このオタヌプリが隣町の歌登町の語源である。』更科源蔵・北海道の伝説 ※伝説は枝幸町のオタヌプリの伝説に酷似、川名もナイとベツの違いで作者が取り違えた可能性も。鮭漁のシーズンは、例え戦に勝っても、冬の備えが出来なければ飢え死にする運命が待っている事を伝説の作者は忘れている。

湧別の巨鳥フリー (石狩川の河童)

この伝説は本来は上川の伝説とするべきかも知れない。『石狩川の河童は頭が禿げていて男も女もあり、男河童は人間の女に憑いたり、女河童は人間の男を籠絡させたり悪いことをするが、人間のために良いことをするのもいたという事だ。昔近文コタンの若者が祖父の言いつけで、北見湧別の人に貸した宝物を受け取りに出かけ、途中ひどく木の倒れたところがあったので、日も暮れたしそこへ泊まろうと用意をしていると河童が現れ目を怒らし「俺の宿を荒らすやつは誰だ」と飛びかかりそうな勢いなので、びっくりした若者は煙草を出して平謝りにあやまったところ、煙草を見た河童は急に目を和らげてニコニコして受け取り「俺は今北見から石狩の方に帰るのだが、お前がこれから行く湧別の男は心の良くない人間だから、宝物をお前に返すのを嫌って、きっとお前をだましてフリーカムイ(巨鳥)のところにやるに違いないから、これを持って行け」といって小さな袋をくれた。喜んだ若者は河童と別れて湧別に行ってみると、河童のいった通り「この山奥にとても綺麗な鳥がいるから、土産にその巣をとりに行ってはどうか」と巧みに誘いかけてきたので、若者は何も知らない顔をして山に入っていくと、エゾ松林の暗く茂っているところに人間の骨が木の枝に引っかかっているので、その木を登っていくとあたりが急に暗くなって、物凄いフリーが襲いかかってきた。然し河童のお守りを持っているの若者に近寄る事が出来ず、かえって次第に弱ってしまい、最後に美しい羽をおとして飛び去ってしまった。若者は木を下りてその羽を拾って帰ろうとすると、フリーはその若者に夢を見せて「これまで誰にも負けたことがないのに、お前にだけはどうしても勝てなかったので、俺の一番大事な宝物をやるのだ」と告げた。若者はそれを持って湧別に帰り、湧別の人の神窓から宝物を投げ込み「こんな立派な宝物を授けられたが、まだ沢山子鳥もいるから、お前達も行ってもらってきたらどうだ」と言ったので、欲張りの湧別の連中は喜んでフリーのいる山に行って皆フリーに喰い殺されてしまったが、近文の若者はその後河童のお守りのおかげで豊かになったという。山の中の木の倒れたところや蔓物のからまったところは、河童の泊まるところだからそんなところには泊まってはいけない。』近文・川村ムイサシマツフチ伝・更科源蔵編・アイヌ伝説集。

湧別・松前藩の御前水

『海岸段丘床にあるシブノツナイ竪穴住居跡で海岸に近い東寄りの所に高さ約4〜5mの崖があり、下は湿地帯。この崖と湿地の境に1ヶ所だけ昔から湧き水があったという。昔、松前藩の役人が蝦夷の巡視途中一帯の穴居遺跡を見た後、渇きを覚え水を求めるも、付近に清水はなく随行者が困っていた時、アイヌがこの湧き水を汲んで献上した事から、この水を『松前藩の御前水』と呼ぶようになったという伝説の水。明治三十七年ころ湧別コタンにいたホテスパという老アイヌが伝えた話という。湧水マニアとしては見逃せない話なので、附近を探してみたが湧水は発見に至らなかった。近くに余り名を知られていない原生花園がある。湧別町字川西 シブノツナイ竪穴住居跡付近?

紋別・大山(紋別山)と落石山

『大山と落石山は親子山だそうです。その昔、落石山は大山と斜里岳との間に誕生した山だといいます。なぜに大山が斜里岳と別れたかというと、斜里岳は非常に嫉妬が深く、かつヒステリーであったからだといいます。大山は若くて華麗な斜里岳を非常に愛していたのですが、ある時、大山が、藻琴山と話し合ったことからして、斜里岳の嫉妬となり、大山の背の低くて男ぶりの悪いのをけなすようになりました。その果てはヒステリーが高じて、噴火するようにさえなりましたので、大山は思いきって愛子の落石山を連れて当地に落ち着いたのだと申します。その後斜里岳はウナベツやその他の男性から結婚を申し込まれましたが、前非を悔いてヒステリーの噴煙をやめ、前夫大山のためにその貞操を守っているのだといいます。』紋別市史編纂委員会・1958年・紋別の伝説より。

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