天塩川歴史紀行 近藤重蔵ゆかりの地
道東厚岸や黄金道路沿いには近藤重蔵の碑は多いが内陸部では珍しいかもしれない。1807(文化4)年の秋、近藤重蔵は西蝦夷地を巡った後に利尻島へ渡るつもりであったが荒天で断念し、天塩川を遡り剣淵、和寒、比布付近を通過して石狩に抜けたという。その道筋はある程度「天塩川川筋図」で知る事はできるが、天塩越しとなるとすっきりしない。上士別から愛別川を経て石狩川を下り神居古潭に至ったと言う話もあって本当はどうなんだろう〜和寒に関しては明らかな記録は無いようですが、昭和の初めにマタルクシュ・ケネフチの土木工事の時に一振の脇差が発掘され三葉葵の紋(徳川将軍家の紋)が彫られた鍔がついていたとのことで「近藤重蔵が天塩川、和寒川と、遡って来た時、同地で供の者が病没、その死をあわれみ脇差もろとも埋葬した」というのが此の「近藤重蔵ゆかりの地」ということです。◇和寒町 塩狩峠付近
- 2014.04.29 Tuesday
- 遺跡と史跡・文化財
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- by hiro