松浦武四郎はアイヌを「皇国の臣民」として把握し、独自の民族という視点に欠けていたのが教化、介抱を正当化することになり、彼が抱え込んでいる自己矛盾のように見える。これがのちに日本は単一民族国家であるという過ちを助長したように思えてならない。視点を変えてみるとアイヌ独自の文化を認め、アイヌの生活基盤を侵さないという松前藩の対アイヌ政策の方が理にかなっているのだが、松前藩の財政再建で民間丸投げがアイヌの生活基盤をことごとく破壊してしまう結果を招いた。江戸幕府は松前藩のやり方を否定しアイヌ民族と文化を未開、野蛮と決めつけ教化、介抱が必要としたことが最大の問題なのだと思う。その政策を引き継いだ大日本帝国によってアイヌ民族と文化は完全に否定されたのであって、松浦武四郎の意図とは関係なく、大きな歴史の流れの中で見るならアイヌ民族の衰退を加速しただけではないのかという疑念を払拭できないのだ。ただ松浦武四郎は蝦夷の利権を牛耳る商人達によってもたらされたアイヌの惨状を直視し、このままではアイヌ民族は遠からず滅んでしまうと心を痛め。和人として唯一アイヌの目線から豪商たちの不正を告発し、時の政権に改善策を進言し救済を求め続けた人である。幕府役人としての限界が見え隠れはするが、その行動と精一杯の誠意、類い希な人間性は同じ和人として誇りでもあり、現代を生きる我々も見習うべき事が多い。松浦武四郎は探検家でルポライター、心優しき自由な旅人でアウトドアの超人、そしてアイヌ民族の友で有った。
]]>「天塩日誌」での宿泊日と宿営地
天塩日誌による往路(天塩川遡航)
※天塩川歴史紀行説明板での宿泊日と宿泊地
6月6日・運上屋泊
6月7日・サコカイシ・野営
6月8日・ヲンカンランマ・野営
6月9日・ホロヒリプト・野営
6月10日・アベシナイ・野営
6月11日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月12日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月13日・ヘンケニウプ・野営
6月14日・ナイフト・アベルイカ家泊
6月15日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月16日〜6月17日・サンルベシベ・仮小屋泊
6月18日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月19日・ナヨロ・アベルイカ家泊
6月20日・ケネフチ・ニシハコロの漁小屋泊
6月21日・サクテクベツ・ルヒサンケ留守宅泊
6月22日・トナイタイベ・野営
天塩日誌による復路(帰路)
6月23日・ナイタイベ・野営
6月24日・サクテクベツ・ルヒサンケ留守宅泊
6月25日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月26日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月27日・オニサツベ・アエトモ家泊
6月28日・ペンケナイ・野営
6月29日・タカヤシリ・野営
6月30日・テシオ・運上屋泊
丁巳日誌(天之穂日誌)での宿泊日と宿営地
天之穂日誌での往路(天塩川遡航)
6月8日・テシオ・運上屋泊
6月9日・ヲタシウシ・野営
6月10日・ホロヒリプト・野営
6月11日・ツウヨイ・野営
6月12日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月13日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月14日・ヘケルル・野営
6月15日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月16日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月17日・サンルベシベ・丸小屋
6月18日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月19日・リイヤニ・ニシハコロの空室泊
6月20日・サクテクベツ・ルヒサンケの留守宅泊
6月21日・トナイタイベ・仮小屋泊
天之穂日誌での復路(帰路)
6月22日・サクテクベツ・ルヒサンケの留守宅泊
6月23日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月24日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月25日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月26日・ホロヒリプト・野営
6月27日・サコカイシ・船中泊
6月28日・テシオ・運上屋泊
※宿泊日は旧暦表示です
旧暦の6月8日は新暦の7月28日です
旧暦の6月28日は新暦の8月17日です。
天塩町のアウトドアスポット鏡沼海浜公園の駐車場正面に、蝦夷地の全貌を明らかにし膨大な資料を後生に残した功績を称えて天塩町が建立した松浦武四郎像と歌碑があり、天塩の渚と利尻山を眺めるように立っている。松浦武四郎は1846(弘化3)年と1856年から1858年にかけ天塩には4度訪れ、1857(安政4)年の天塩川探査行の起点となった。歌碑には天塩日誌の題字と天塩にちなんだ和歌が二首『蝦夷人のみそぎなしたる天塩川今宵ぞ夏のとまりをばしる』『ながむれば渚ましろに成にけりてしほの浜の雪の夕暮れ』と刻まれている。正面からの写真はオロンライン-鏡沼公園の方で◇天塩町更岸 天塩川河口鏡沼海浜公園
]]>北海道開発局設置が設置した七カ所の一つで、天塩川歴史紀行説明板で天塩川最下流の天塩川河口、カヌーポートにある。カラー印刷で松浦武四郎の写真も掲載したスチール製の説明板で耐食性もかなり良さそうです。天塩日誌を訪ねてのサブタイトル通り、安政4年に流域を知り尽くしたアエリテンカ、トセツ、エコレ、トキコサンの案内でこの天塩川を踏査した経過の概要を記したある。説明内容は一般的に知られている「天塩日誌」を元にしたもので判りやすい。何よりも大勢の人に眼に触れるところにあるのが嬉しい。以後は此のタイプの説明板は天塩川歴史紀行説明板で統一します。天塩川歴史紀行説明板では「天塩日誌」を元にし宿泊地と宿泊日を統一して有り、実際の宿泊日や宿泊地とは異なっている事が多いので多少混乱するかも。記事では実際の宿営日と宿営地で統一しました。詳しくは丁巳日誌でご確認を。◇天塩町 天塩川河川公園 N44°53’07,6” E141°44’29.7”
]]>宿営地は(6月9日)丁巳日誌はヲタシウシ、天塩日誌ではヲンカンランマとなっている。ペンケオートマップ川の支流だった千曲川河口付近の宿営と思われるが、今の千曲川は放水路で安牛駅付近の天塩川右岸に直接注いでいる。実際の宿営地は安牛付近より南幌延寄りになると思われるが、説明板では宿営推定地を安牛付近としている。ここも陸路で近づくのは困難で確実なのはカヌーとなりそう。安牛駅付近からは利尻山が見える所があります。この辺は天塩川の蛇行が激しい所でショートカットで取り残された三日月湖が数多く残されている。天塩川歴史紀行説明板は人目につくよう、国道40号線が雄信内(オノブナイ)川を越える栄橋上流側の左岸堤防上に設置。◇天塩町雄信内 標高 16m N44°53’48.2” E141°55’26.2”
]]>松浦武四郎は全道各地に足跡を残しているが、安政4年(1857)年に天塩川を遡行、石狩川上流への踏査をしているが、その調査内容を天塩日誌に残している。武四郎は調査の帰路にトンベッポ(筬島地区)のアイヌのコタンに立ち寄りアエトモという古老(エカシ)に「カイナー」の意味を尋ねたところ「カイ」は「この国に生まれたもの」「ナー」は敬語という事(言語学者は否定、普通は男性の尊称との事で古老アエトモの物語か?)を知る。明治2年(1869)に明治政府から蝦夷地命名の任を受けた武四郎は古老アエトモから聞いた話を元に「蝦夷自らの国を加伊という」旨の熱田大神宮縁起を重ねて「北加伊道」としたのだろうか? 武四郎は北加伊道、日高見道、海北道、海島道、東北道、千島道の6候補を挙げたが、明治政府は「北加伊道」を採用し東海道、西海道の例に倣って「加伊」を「海」に改め北海道が誕生する。北海道の海には「北のアイノの国」という想いが込められ、古老アエトモと松浦武四郎の出会いが有って産声をあげることが出来た。(北海道は水戸の徳川斉昭が幕府に建言していたと云う)国道40号沿いの筬島橋から稚内方面に約1km走ると電光掲示板と武四郎の看板が見え、看板を右折、500m程先に碑と略年譜がある。◇音威子府村字物満内 ◇位置情報 N44'44'25' N142'11'4'
]]>国道40線から筬島大橋を渡り舗装路を進んでいくと踏切となるがその手前の角地に標柱がある。安政4年(1857)年の天塩川上流域を踏査時、武四郎一行はトンベツホ(ペンケオニサベとも)にてアエトモ家に泊まる予定だったが惨状を見て諦め、少し遡って案内人の一人トセツの妻が遊びに来ていたというトチノキの家に宿泊(6月12日)。復路はアエトモ家に宿泊(6月25日)したと天塩日誌にあるが、丁巳日誌によると実際はトチノキの家に宿泊しアエトモ家を訪ね色々と話を聞いたことになっている。宿泊した夜に「ホッホッホッホッと啼鳥有」家主のアエトモが「「最上ニシハが内地にもいる仏法僧という鳥だと言っていた」と云い、武四郎は初めて仏法僧と云う鳥の鳴き声を聞いたというが、実際はコノハズクらしい。最上ニシハとは幕臣近藤重蔵らと千島を探検し、9回にわたって北方探検にあたった最上徳内の事。※2014年春に訪問した時は史跡表示板が外されていた。理由はわからないが手違いであることを祈っている。◇音威子府村字筬島 ◇位置情報 N44'44'28' E142'11'27'
]]>説明板では6月11となっていて踏査行五日目の(実際の宿営日は6月12日と6月25日で往路4日目となる)概要がしるされている。ここでは説明板にないが、帰路に実際に立ち会った「熊送りの儀式」を熊を処理するには色々の儀式やしきたりがあると絵とともに天塩日誌に詳しく記している。佐藤正克氏の闢幽日記に「松浦氏天塩誌ニ七段瀧ノ図アリ。然トモ今其何処ナルヲ知ラズ」とある「シイヘルカルシ七段の滝」に関しては佐藤氏が場所を間違えたか、雨後で帰路は増水していたというので一時的な幻の滝という可能性もあり説明板では触れていない。天塩川歴史紀行説明板は旧筬島小学校正門の裏側、アトリエ3モアの斜め前に有ります。旧筬島小学校はアトリエ3モアという施設になっています。◇音威子府村字筬島
]]>天塩川踏査の往路(6月13日)と帰路(6月24日)に宿泊している。近世蝦夷人物誌にも登場するヲクルマトマナイに住んでいたエカシテカニ一家が武四郎らを手厚くもてなし「住んでいる国がもっと近ければ娘を嫁にやるのだが」と語ったと云う程に松浦武四郎はアイヌに信頼されていたのでしょう。その時の返礼に詠んだ歌がびふかアイランド内にある歌碑に刻まれている。平成10年に美深町文化史跡に指定された。◇美深町恩根内 ◇位置情報 N44'36'05' E142'18'29'
]]>美深町市街地から国道40号を北上、恩根内大橋を渡り右折、国道下を通り抜け恩根内駅を過ぎて三叉路を左折するとまもなく右側の道路脇、恩根内駅から約400mに石碑と美深町設置の説明板、天塩川歴史紀行説明板がある。ここには昭和初期に郷土史研究をされていた笠原康雄氏が木碑を建てたというが、平成10年に美深町文化史跡として石碑となったが裏面は英文。ヲクルマトマナイ仮住まいしていたエカシテカニ一家に往路(6月13日)と帰路(6月24日)に宿泊している。ここでは五弦琴(トンコリ)などを楽しんだようです。◇美深町恩根内
]]>踏査でこの地を訪れた松浦武四郎は「大昔に神が作り並べた」という川の中に一条の岩が並んでいる様子を、天塩日誌に『本名テシウシなるを何時よりかテシホと語る也。テシは梁の事ウシは有との意なり。此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて梁柵を結し如く、故に号しと』この地形が「天塩」の語源になっていると記した。テッシは部分的に凹んで深くなっているので溺死する者が多く渡渉禁止となっていた様だ。木材の流送や船用に掘削され今は超渇水にならないと見えないが、びふかアイランド内に十分の一にスケールダウンしたテッシが作られている。ここでは魔神が梁柵を作りサケを捕ることをアイヌに教えたという伝説も残されている。美深町指定文化財です。◇美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内
]]>道の駅〜びふかの後方の美深森林公園びふかアイランド内の「びふか温泉」と道を挟んだ正面に歌碑及び踏査之地碑と美深町町長の説明板がある。安政4年の天塩川流域踏査行時には往復とも恩根内のエカシテカニの家に宿泊。武四郎らを手厚くもてなしてくれた礼に贈った詩2首が碑に刻まれています。『ゑみしらは筍にもる飯も古のさまをつたへて葉椀にぞもる』『かきならす五つの緒ごと音さえて千々の思いをわれもひきけり』宿営地はここからR40を更に北上し恩根内にあります。◇美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内
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