松浦武四郎はアイヌを「皇国の臣民」として把握し、独自の民族という視点に欠けていたのが教化、介抱を正当化することになり、彼が抱え込んでいる自己矛盾のように見える。これがのちに日本は単一民族国家であるという過ちを助長したように思えてならない。視点を変えてみるとアイヌ独自の文化を認め、アイヌの生活基盤を侵さないという松前藩の対アイヌ政策の方が理にかなっているのだが、松前藩の財政再建で民間丸投げがアイヌの生活基盤をことごとく破壊してしまう結果を招いた。江戸幕府は松前藩のやり方を否定しアイヌ民族と文化を未開、野蛮と決めつけ教化、介抱が必要としたことが最大の問題なのだと思う。その政策を引き継いだ大日本帝国によってアイヌ民族と文化は完全に否定されたのであって、松浦武四郎の意図とは関係なく、大きな歴史の流れの中で見るならアイヌ民族の衰退を加速しただけではないのかという疑念を払拭できないのだ。ただ松浦武四郎は蝦夷の利権を牛耳る商人達によってもたらされたアイヌの惨状を直視し、このままではアイヌ民族は遠からず滅んでしまうと心を痛め。和人として唯一アイヌの目線から豪商たちの不正を告発し、時の政権に改善策を進言し救済を求め続けた人である。幕府役人としての限界が見え隠れはするが、その行動と精一杯の誠意、類い希な人間性は同じ和人として誇りでもあり、現代を生きる我々も見習うべき事が多い。松浦武四郎は探検家でルポライター、心優しき自由な旅人でアウトドアの超人、そしてアイヌ民族の友で有った。
]]>「天塩日誌」での宿泊日と宿営地
天塩日誌による往路(天塩川遡航)
※天塩川歴史紀行説明板での宿泊日と宿泊地
6月6日・運上屋泊
6月7日・サコカイシ・野営
6月8日・ヲンカンランマ・野営
6月9日・ホロヒリプト・野営
6月10日・アベシナイ・野営
6月11日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月12日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月13日・ヘンケニウプ・野営
6月14日・ナイフト・アベルイカ家泊
6月15日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月16日〜6月17日・サンルベシベ・仮小屋泊
6月18日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月19日・ナヨロ・アベルイカ家泊
6月20日・ケネフチ・ニシハコロの漁小屋泊
6月21日・サクテクベツ・ルヒサンケ留守宅泊
6月22日・トナイタイベ・野営
天塩日誌による復路(帰路)
6月23日・ナイタイベ・野営
6月24日・サクテクベツ・ルヒサンケ留守宅泊
6月25日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月26日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月27日・オニサツベ・アエトモ家泊
6月28日・ペンケナイ・野営
6月29日・タカヤシリ・野営
6月30日・テシオ・運上屋泊
丁巳日誌(天之穂日誌)での宿泊日と宿営地
天之穂日誌での往路(天塩川遡航)
6月8日・テシオ・運上屋泊
6月9日・ヲタシウシ・野営
6月10日・ホロヒリプト・野営
6月11日・ツウヨイ・野営
6月12日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月13日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月14日・ヘケルル・野営
6月15日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月16日・チノミ・エレンカクシ家泊
6月17日・サンルベシベ・丸小屋
6月18日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月19日・リイヤニ・ニシハコロの空室泊
6月20日・サクテクベツ・ルヒサンケの留守宅泊
6月21日・トナイタイベ・仮小屋泊
天之穂日誌での復路(帰路)
6月22日・サクテクベツ・ルヒサンケの留守宅泊
6月23日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
6月24日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊
6月25日・トンベッポ・トチノキ家泊
6月26日・ホロヒリプト・野営
6月27日・サコカイシ・船中泊
6月28日・テシオ・運上屋泊
※宿泊日は旧暦表示です
旧暦の6月8日は新暦の7月28日です
旧暦の6月28日は新暦の8月17日です。
天塩町のアウトドアスポット鏡沼海浜公園の駐車場正面に、蝦夷地の全貌を明らかにし膨大な資料を後生に残した功績を称えて天塩町が建立した松浦武四郎像と歌碑があり、天塩の渚と利尻山を眺めるように立っている。松浦武四郎は1846(弘化3)年と1856年から1858年にかけ天塩には4度訪れ、1857(安政4)年の天塩川探査行の起点となった。歌碑には天塩日誌の題字と天塩にちなんだ和歌が二首『蝦夷人のみそぎなしたる天塩川今宵ぞ夏のとまりをばしる』『ながむれば渚ましろに成にけりてしほの浜の雪の夕暮れ』と刻まれている。正面からの写真はオロンライン-鏡沼公園の方で◇天塩町更岸 天塩川河口鏡沼海浜公園
]]>北海道開発局設置が設置した七カ所の一つで、天塩川歴史紀行説明板で天塩川最下流の天塩川河口、カヌーポートにある。カラー印刷で松浦武四郎の写真も掲載したスチール製の説明板で耐食性もかなり良さそうです。天塩日誌を訪ねてのサブタイトル通り、安政4年に流域を知り尽くしたアエリテンカ、トセツ、エコレ、トキコサンの案内でこの天塩川を踏査した経過の概要を記したある。説明内容は一般的に知られている「天塩日誌」を元にしたもので判りやすい。何よりも大勢の人に眼に触れるところにあるのが嬉しい。以後は此のタイプの説明板は天塩川歴史紀行説明板で統一します。天塩川歴史紀行説明板では「天塩日誌」を元にし宿泊地と宿泊日を統一して有り、実際の宿泊日や宿泊地とは異なっている事が多いので多少混乱するかも。記事では実際の宿営日と宿営地で統一しました。詳しくは丁巳日誌でご確認を。◇天塩町 天塩川河川公園 N44°53’07,6” E141°44’29.7”
]]>宿営地は(6月9日)丁巳日誌はヲタシウシ、天塩日誌ではヲンカンランマとなっている。ペンケオートマップ川の支流だった千曲川河口付近の宿営と思われるが、今の千曲川は放水路で安牛駅付近の天塩川右岸に直接注いでいる。実際の宿営地は安牛付近より南幌延寄りになると思われるが、説明板では宿営推定地を安牛付近としている。ここも陸路で近づくのは困難で確実なのはカヌーとなりそう。安牛駅付近からは利尻山が見える所があります。この辺は天塩川の蛇行が激しい所でショートカットで取り残された三日月湖が数多く残されている。天塩川歴史紀行説明板は人目につくよう、国道40号線が雄信内(オノブナイ)川を越える栄橋上流側の左岸堤防上に設置。◇天塩町雄信内 標高 16m N44°53’48.2” E141°55’26.2”
]]>松浦武四郎は全道各地に足跡を残しているが、安政4年(1857)年に天塩川を遡行、石狩川上流への踏査をしているが、その調査内容を天塩日誌に残している。武四郎は調査の帰路にトンベッポ(筬島地区)のアイヌのコタンに立ち寄りアエトモという古老(エカシ)に「カイナー」の意味を尋ねたところ「カイ」は「この国に生まれたもの」「ナー」は敬語という事(言語学者は否定、普通は男性の尊称との事で古老アエトモの物語か?)を知る。明治2年(1869)に明治政府から蝦夷地命名の任を受けた武四郎は古老アエトモから聞いた話を元に「蝦夷自らの国を加伊という」旨の熱田大神宮縁起を重ねて「北加伊道」としたのだろうか? 武四郎は北加伊道、日高見道、海北道、海島道、東北道、千島道の6候補を挙げたが、明治政府は「北加伊道」を採用し東海道、西海道の例に倣って「加伊」を「海」に改め北海道が誕生する。北海道の海には「北のアイノの国」という想いが込められ、古老アエトモと松浦武四郎の出会いが有って産声をあげることが出来た。(北海道は水戸の徳川斉昭が幕府に建言していたと云う)国道40号沿いの筬島橋から稚内方面に約1km走ると電光掲示板と武四郎の看板が見え、看板を右折、500m程先に碑と略年譜がある。◇音威子府村字物満内 ◇位置情報 N44'44'25' N142'11'4'
]]>国道40線から筬島大橋を渡り舗装路を進んでいくと踏切となるがその手前の角地に標柱がある。安政4年(1857)年の天塩川上流域を踏査時、武四郎一行はトンベツホ(ペンケオニサベとも)にてアエトモ家に泊まる予定だったが惨状を見て諦め、少し遡って案内人の一人トセツの妻が遊びに来ていたというトチノキの家に宿泊(6月12日)。復路はアエトモ家に宿泊(6月25日)したと天塩日誌にあるが、丁巳日誌によると実際はトチノキの家に宿泊しアエトモ家を訪ね色々と話を聞いたことになっている。宿泊した夜に「ホッホッホッホッと啼鳥有」家主のアエトモが「「最上ニシハが内地にもいる仏法僧という鳥だと言っていた」と云い、武四郎は初めて仏法僧と云う鳥の鳴き声を聞いたというが、実際はコノハズクらしい。最上ニシハとは幕臣近藤重蔵らと千島を探検し、9回にわたって北方探検にあたった最上徳内の事。※2014年春に訪問した時は史跡表示板が外されていた。理由はわからないが手違いであることを祈っている。◇音威子府村字筬島 ◇位置情報 N44'44'28' E142'11'27'
]]>説明板では6月11となっていて踏査行五日目の(実際の宿営日は6月12日と6月25日で往路4日目となる)概要がしるされている。ここでは説明板にないが、帰路に実際に立ち会った「熊送りの儀式」を熊を処理するには色々の儀式やしきたりがあると絵とともに天塩日誌に詳しく記している。佐藤正克氏の闢幽日記に「松浦氏天塩誌ニ七段瀧ノ図アリ。然トモ今其何処ナルヲ知ラズ」とある「シイヘルカルシ七段の滝」に関しては佐藤氏が場所を間違えたか、雨後で帰路は増水していたというので一時的な幻の滝という可能性もあり説明板では触れていない。天塩川歴史紀行説明板は旧筬島小学校正門の裏側、アトリエ3モアの斜め前に有ります。旧筬島小学校はアトリエ3モアという施設になっています。◇音威子府村字筬島
]]>天塩川踏査の往路(6月13日)と帰路(6月24日)に宿泊している。近世蝦夷人物誌にも登場するヲクルマトマナイに住んでいたエカシテカニ一家が武四郎らを手厚くもてなし「住んでいる国がもっと近ければ娘を嫁にやるのだが」と語ったと云う程に松浦武四郎はアイヌに信頼されていたのでしょう。その時の返礼に詠んだ歌がびふかアイランド内にある歌碑に刻まれている。平成10年に美深町文化史跡に指定された。◇美深町恩根内 ◇位置情報 N44'36'05' E142'18'29'
]]>美深町市街地から国道40号を北上、恩根内大橋を渡り右折、国道下を通り抜け恩根内駅を過ぎて三叉路を左折するとまもなく右側の道路脇、恩根内駅から約400mに石碑と美深町設置の説明板、天塩川歴史紀行説明板がある。ここには昭和初期に郷土史研究をされていた笠原康雄氏が木碑を建てたというが、平成10年に美深町文化史跡として石碑となったが裏面は英文。ヲクルマトマナイ仮住まいしていたエカシテカニ一家に往路(6月13日)と帰路(6月24日)に宿泊している。ここでは五弦琴(トンコリ)などを楽しんだようです。◇美深町恩根内
]]>踏査でこの地を訪れた松浦武四郎は「大昔に神が作り並べた」という川の中に一条の岩が並んでいる様子を、天塩日誌に『本名テシウシなるを何時よりかテシホと語る也。テシは梁の事ウシは有との意なり。此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて梁柵を結し如く、故に号しと』この地形が「天塩」の語源になっていると記した。テッシは部分的に凹んで深くなっているので溺死する者が多く渡渉禁止となっていた様だ。木材の流送や船用に掘削され今は超渇水にならないと見えないが、びふかアイランド内に十分の一にスケールダウンしたテッシが作られている。ここでは魔神が梁柵を作りサケを捕ることをアイヌに教えたという伝説も残されている。美深町指定文化財です。◇美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内
]]>道の駅〜びふかの後方の美深森林公園びふかアイランド内の「びふか温泉」と道を挟んだ正面に歌碑及び踏査之地碑と美深町町長の説明板がある。安政4年の天塩川流域踏査行時には往復とも恩根内のエカシテカニの家に宿泊。武四郎らを手厚くもてなしてくれた礼に贈った詩2首が碑に刻まれています。『ゑみしらは筍にもる飯も古のさまをつたへて葉椀にぞもる』『かきならす五つの緒ごと音さえて千々の思いをわれもひきけり』宿営地はここからR40を更に北上し恩根内にあります。◇美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内
]]>松浦武四郎が名寄に入り最初に宿泊した。ナイフト(名寄川河口)から少し左に入った名寄川右側岸辺に民家二軒有り、アヘルイカ家に宿泊(6月15日)、名寄川踏査の帰路(6月18日)と天塩川上流域踏査の帰路(6月23日)にも宿泊している。当地は蚊やアブなどが多くこれを防ぐため、家の中に囲炉裏の煙をこもらせる工夫をしていたこと、鹿猟の仕掛け弓の方法や、鹿猟で使用する笛などこの地方独特の様式に付いて記録している。また苦労して製作した織物を和人との交易で安く買いたたかれていた実情なども記している。天塩川歴史紀行説明板は道道933号(日進名寄線)を下川町市街から美深方面に向かい、日進橋を渡り日新駅前の通りで左折、ピヤシリ大橋の手前で左折し堤防に入って少し進むとある。実際の宿営推定地は道道933号(日進名寄線)を美深方面に向かい、日進橋を渡って約1.6km程進んだ右側で日新遺跡群の説明板がある所。二つの説明板による混乱を避けるため名寄川堤防上だけとしたという。◇天塩川歴史紀行説明板 名寄市日新 名寄川堤防
]]>松浦武四郎はチノミ(上名寄・九線川河口付近)の首長エレンカクシ家(6月16日泊)を拠点に名寄川とサンル川の合流点付近のサンルベシベに野営(6月17日)し、名寄川及びサンル川を踏査したとされる。松浦武四郎はこのあたりで倒木流木に船の行く手を阻まれ、伐ったり潜りぬけたりと悪戦苦闘。水量も少なくなり陸を行くが両岸は木と蔦がからみあい、小さい沢が多く本筋が分からなくなる程と「午後峠に到り木間より海が見え、峠を越えて行くとホロナイ川」という内容は、原本の丁巳日誌にはなく、聞き書きを元に興を添えるため創作した武四郎流のフィクションであり、峠を越えて行くとホロナイ川は確かだが海の見えるような所ではない。道道60号(下川雄武線)を下川市街から左折し雄武方向に進む。名寄川を渡りサンル川にかかる橋を越えて最初にあるカーブの終わる所の道路左側に標柱がある。下川市街から約1.5km程。◇木碑標柱 下川町北町462
]]>名寄川及びサンル川を踏査時の悪戦苦闘ぶりが天塩日誌の中に書かれているが、実際に本人が確認しなかった内容も含まれ、山に登ったと言う話は実際の日程からは不可能と思われる。下川町二の橋のユニナイ川河口付近で引き返し、上流域については聞き書きを残している。標柱は国道239号を下川町市街から興部方面に約4km、左側の神成牧場を通り過ぎ、右に名士バス30線バス停付近を過ぎてまもなく道路右側にある。木標の近くに「二の橋道路標識」があるのでそれが目印になる。近くに駐車スペース一台分。◇木碑標柱 下川町三の橋30線
]]>国道239号から道道976号(西風連士別線)に入り北上して下北大橋手前の交差点を左折。さらに右、左と曲がって剣淵川堤防に上がると前に説明板が見える。「此処ニシハコロの村也。上陸して乙名の家(鱒捕小屋)を見るに、誰も住ざるが故に家根腐れて家には虎杖等多く生茂りたり。其傍にて止宿(6月19日)しけるに、此辺蚊の多き事いよいよ下に倍し喰事も何も出来ざるが故に、夜に入てより其家を明此内に入、火を燃して宿しぬ。然る所明前一雨降来りしが、処々滝の如く漏り出したる故、如何とも致しがたかりしが、翌朝見るに其雨もり滴煤水にて何も皆染りけり」すすだらけの雨水でずぶ濡れとはあまりにも気の毒と言うしかない。このあと剣淵川を50町ほど遡り(12線橋付近)凡その地形を見て戻っている。◇説明板 士別市北町 剣淵川堤防際
]]>サッテクベツに着いた時は皆出かけており殆どの家は留守で有ったが(当時三軒有ったが人が住んでいたのはルヒサンケの家のみ)、この時に空家で酒を仕込んでいる。ルヒサンケの家に泊まり(6月20日)翌日さらに上流へ踏査に向かい、帰路(6月22日)に再度ここに泊まっている。この時は武四郎が来た事を聞きつけて大勢が集まり、仕込んでおいた酒で盛大に酒宴を張ったと云う。踏査の道中悲しい話を聞き無情の様を見て来たが、初めて楽しそうな様子を見たと。この時の従者トセツとアエリテンカも此地の出であった。サッテクベツの宿営地には国道40号を名寄方向に進み、大通り北3で右折し九十九橋を渡り、1つ目の信号を右折、約600m直進して境橋を越えてすぐ右折。約100m先の天塩川土手の下で水門近くに案内板がある。ここに村長ニシバコロの住居跡の標柱も立っている。駐車スペースあり。◇士別市中士別
]]>武四郎一行がサッテクベツに着いた時は皆出かけており殆どの家は留守で空家ばかりと、ルヒサンケ家に宿泊(6月20日)し空家で酒を仕込んで天塩川上流の踏査、帰路も(6月22日)宿泊している。帰路では大勢が集まり、仕込んでおいた酒で盛大に酒宴を張ったと云う。ここに村長ニシバコロの村と書かれた標柱もあるが、当時ニシバコロは苫前にいて不在、家族は風連に移り住んでいた。また屯田兵の入植前は士別の天塩川筋にアイヌ家屋は10件、当地には明治29年まで居住していたという。士別市街から九十九橋を渡り、1つ目の信号を右折、約600m直進してワッカウエンベツ川にかかる境橋を越え直後を右折。約100m先の天塩川堤防下の水門近くに宿営地を示す説明板がある。◇村長ニシパコロの住居跡標柱・説明板・天塩川歴史紀行説明板 士別市中士別
]]>松浦武四郎一行がサッテクベツから天塩川上流へ向かいナイタイベで進退窮り、引き返すかどうか悩んでいたところ此処に、偶然にもアエリテンカの妻がいて『大木が倒れているからそれを渉るように』と教えられ、ナイタイベより陸行で上流のペンケヌカナン(朝日町市街地裏・斑渓橋付近)迄行きそこで引き返す。帰路にトナイタイベ(東内大部)にて野営(6月21日)し翌日サッテクベツに戻る。山奥で偶然とはいえ妻と出会ったアエリテンカの喜ぶ様も天塩日記に残してしている。士別滝上線の西内大部川にかかる更生橋の間近に士別市郷土研究会が昭和42年に設置した「松浦武四郎天塩川探検之地」の説明碑がある。説明板には漢詩とその現代語訳が書いてあるが、傷みが進み題字は殆ど判読不能なので写真は古いのを使った。ここにも天塩川歴史紀行説明板も設置予定とか。◇松浦武四郎天塩川探検説明碑 士別市上士別町25線 更生橋
]]>道東厚岸や黄金道路沿いには近藤重蔵の碑は多いが内陸部では珍しいかもしれない。1807(文化4)年の秋、近藤重蔵は西蝦夷地を巡った後に利尻島へ渡るつもりであったが荒天で断念し、天塩川を遡り剣淵、和寒、比布付近を通過して石狩に抜けたという。その道筋はある程度「天塩川川筋図」で知る事はできるが、天塩越しとなるとすっきりしない。上士別から愛別川を経て石狩川を下り神居古潭に至ったと言う話もあって本当はどうなんだろう〜和寒に関しては明らかな記録は無いようですが、昭和の初めにマタルクシュ・ケネフチの土木工事の時に一振の脇差が発掘され三葉葵の紋(徳川将軍家の紋)が彫られた鍔がついていたとのことで「近藤重蔵が天塩川、和寒川と、遡って来た時、同地で供の者が病没、その死をあわれみ脇差もろとも埋葬した」というのが此の「近藤重蔵ゆかりの地」ということです。◇和寒町 塩狩峠付近
]]>北オホーツクでは稚内に次いで2番目の武四郎碑。江戸末期の鬼志別は小休所であり宿泊は浜猿払にあった通行屋(番屋?)だったので、猿払公園に武四郎が宿営したという事ではない。ただ実際の宿営地で誰の目にも触れないよりは「道の駅」に設置し、説明板で誰にでもわかるようにする方がよいだろう。弘化3年は猿払の番屋が無人でアイヌ民家に宿泊、懇ろに世話をしてくれ歌も聴かせてくれたが疲労で歌どころではなかった様子。竹四郎廻浦日記ではこの碑がある所は「イシヤンベ」と呼ばれ「此所に到りてカムイト(北見神威岬)を見る」と確かにここからは神威岬が見える。宿泊はサルブツ(浜猿払)で「舟渡し。超えて通行屋一件」とありと、ここで宿泊している。安政5年、3度目の猿払入りでは初日は当地の役アイヌであったアヤシ宅に宿泊、翌日に枝幸からの同行者と当地乙名の娘が案内してポロ沼を一巡した後に猿払川を遡っているが、ホロナイで流木に阻まれ先に進めず引き返し、当日は番屋泊まりだった。◇猿払村浜鬼志別 道の駅・猿払公園
]]>日本人でただ一人、世界地図に名を残した間宮林蔵と松田伝十郎が幕府から命を受け、文化5年4月13日に第1次樺太探検へ出発した地。宗谷岬から西へ3kmの国道238号線沿いの第2清浜地区に『間宮林蔵渡樺出港の地』がある。かつて間宮林蔵像もあったが宗谷岬に移転された。此地から松浦武四郎も樺太へ渡った。廻浦日誌に「此処本名はピリカトマリなるべし。其地未に向ひノツシヤフ岬と対して其湾内一澗となる。其澗内暗礁多くして出入りの船は至て容にくし。然れども海底一面の平暗礁なるが故に、其ピリカトマリに入る時は如何なる風波も障ることなし」と。◇稚内市第二清浜
]]>稚内では初めて、北オホーツクでも最初の松浦武四郎碑で有る。それも官製ではなく松浦武四郎に思いを寄せる人々が呼びかけカンパを集めて完成した。碑のあるところは稚内市街から宗谷岬へ向かって進み声問川を渡る前のカーブ山側の国道沿いにある。☆松浦武四郎は声問には弘化3年安政三年安政5年の三度訪れ、安政5年には声問川を遡り踏査、その時の内容を戊午山川取調日誌 西部 古以登以誌に残している。☆説明板の最後に「松浦武四郎踏査による東西蝦夷山川取調図完成150年を記念し、松浦武四郎の偉業を称え、後世に長くその遺徳を伝えると共に、アイヌの人達の助力に感謝する為有志相図ってこの宿営碑を建立する。平成21年12月6日 宗谷サロベツ松浦武四郎の会有志一同。アイヌ民族のおかれた惨状には触れていないが良心的な印象の碑である。◇稚内市声問 標高 8m N45°24’16” E141°45’07”
]]>サロベツ原野から道道444号を日本海に向かい、道道106号(稚内天塩線)を稚内方面に右折、約200mの直進で「砂丘のえき」があり、その駐車場海側に止宿所跡の説明板がある。アイヌ語でワッカ・サク・ナィ(水が・ない・沢)と呼ばれていたこの地は稚内と天塩の中継地で、旅人の休息と給水の地として1840年代に止宿所が設けられ井戸も掘られたが、それ以前は水を天塩より馬で運んだと云う。松浦武四郎は1846年と1856年、1858(安政5)年にこの地を通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や蔵と井戸があった事を記録に残している。実際の止宿場はここより2km程稚内寄りの富士見橋(ツツミ川)の北側200m付近で、後に駅逓として使用されその痕跡が残る。 ◇豊富町稚咲内 ◇N45°05’14” E141°37’49”
]]>道の駅『おびら鰊番屋』前のトワイライトアーチ右側に、幕末の探検家で北海道の名付け親出もある、松浦武四郎翁の銅像が設置され、鰊漁場の賑わいを極めた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。夕陽をイメージしたモニュメントには、小平町には4度た訪れている武四郎翁が鬼鹿で詠んだ短歌『名にも似ずすがたやさしき女郎花なまめき立てるおにしかの里』が刻まれています。道の駅内に有る花田家番屋は北海道遺産に指定され武史郎が訪れた当時のままに立っていて内部の見学も可能。◇小平町鬼鹿広富48 にしん文化歴史公園
]]>留萌港が見渡せる大町の高台に有る望洋遊園内に松浦武四郎顕彰碑・歌碑は有ります。顕彰碑も公園も地図には無く案内板も有りません。始めていく方には見つけにくいかもしれませんが遊園の赤灯台か、碑近くに留萌湊神社と云う小さな神社を目印に探しましょう。武四郎はヌプシャ越を含めて留萌は4回の通過、宿泊しておりルルモッペ運上屋のスケッチを残している。運上屋は古くは苫前場所に入っていたがルルモッペ場所として独立、藩直領で場所請負人は栖原家である。管理人が学生の頃に老人達が留萌と書きルルモッペと呼んでいたのを覚えているが、留萌の地名も武四郎が提言したと云う。武四郎とは関係ないが公園にある赤灯台は昭和6年に留萌港西突堤に建てられ、60年以上船舶の安全航行を見守り平成9年に引退。その後は歴史的遺産として望洋遊園に保存されている。付け加えると「海のふるさと館」横にも引退した高橋灯台が復元保存されています。◇留萌市大町
]]>松浦武四郎一行は安政3年5月7日に石狩運上屋出発し5月12日ウリウ川筋オモシロナイで宿営。5月13日ウリウ川口出発恵岱別川筋をたどって仁奈良峠を越え信砂川の川筋を通り5月16日苫前運上屋着(ルルモッペ)のヌプシャ越えを敢行している道当時は絶たりとの事で、雨龍川口より3日を要した困難な探査で文化年間以来絶えてきた留萌への道を再び開いた。信砂川河口近くの彦部橋たもとに「松浦武四郎信砂越えの地」の標柱が有るが、草木が伸びると見えないかも。参考までに苫前場所には天塩場所が含まれている時期があり知行主は松前家だが、安政6年(1859)に庄内藩の所領となる。文政以後は場所請負人が板垣屋〜栖原家、安政年間は栖原家である。◇増毛町彦部
]]>碑文で説明にかえます。「日本書紀によれば、斉明の代(西暦650年代)において、すでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。今から約300年前、シャクシャインは、ここシビチャリのチャシ(城砦)を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。当時、自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、松前藩政の非道な圧迫と苛酷な搾取は日増しにつのり同族の生活は重大脅威にさらされた。茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民俗自衛のため止むなく蜂起したが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。しかし志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文9年エゾの乱と言う。いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがすると共に父祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。1970年9月15日 シャクシャイン顕彰会 会長神谷与一」◇新ひだか町静内真歌441 真歌公園内
]]>道内にある武四郎碑では一番新しい碑です。碑文から一部抜粋「北海道の名付け親、松浦武四郎が新ひだか町を訪れてから150年以上経過したが我々の祖先と松浦武四郎の絆は今なお燦然と輝いている。我々は、新ひだか町のアイヌ民族と松浦武四郎の民族を越えた交流と、ともになしえた業績を讃え、ここアイヌ民族の聖なる地、真歌の丘に記念碑を建立する。北海道アイヌ協会 新ひだか支部長 大川 勝」松浦武四郎は六度に渡って蝦夷地を踏査、そのうち三度、新ひだか町を訪れている。真歌公園内は国指定史跡「シベチャリチャシ跡群」を含む一帯でアイヌ民族にとっては聖なる地であり、英傑シャクシャイン像、神器カムイパスイを形取ったというユカルの塔、シペチャリチャシ跡の看板奥に柵で囲われたチャシがみえ、中に入るとシャクシャイン城址の碑がある。展望台もあり見晴らしはよい。◇新ひだか町静内真歌441 真歌公園内
]]>平取町、歴史の散歩道にあるレリーフより一部抜粋「沙流川筋には安政五年に来訪。門別の奥から貫気別川に入り、岩知志方面に抜け、そこから沙流川の本流を下る経路を探査し、地名、人名、続柄、年齢などコタンごとの状況を詳しく記した。」平取町では五首(東蝦夷日誌)残しているが、レリーフには幌去で詠んだ「世ばなれし 保路さる山の 奥えみし 都の手ぶり いつならひけん」が最後に刻まれていた。東蝦夷日誌では「ニブタニ(東小川 畑有 人家廿七軒)名義、昔し此處の細工人小太刀を作り、其柄に金物を三ッ附て奉りしと云故事有」と二風谷昔から名工がいたようですね。レリーフは平取町アイヌ博物館のすぐそばの歴史の散歩道にあり。歴史の散歩道には金城マツ・金田一京助など平取と縁のある人物レリーフが配置されている。(沙流郡平取町二風谷)
]]>松浦武四郎之碑は厚真町有形文化財となっています。碑文より一部抜粋「本村(現・厚真町)には安政5年6月21日から6月23日まで二泊三日で踏査された 東蝦夷日誌は貴重な文献であるが その第参編中に当時の状況を詳述している 茲に翁の来村百年記念碑を建立し長く その功を顕彰する次第である」碑は昭和32年に厚真村郷土史研究会員のメンバーが建立、一般に歌碑と言っているが「松浦武四郎・来村百年記念碑」になるようです。「えみしらも しらぬ深山に 分いれば ふみまようふべき 道だにもなし」と東蝦夷日誌にある一首が刻まれている。旧字名がトニカと呼ばれ、武四郎が宿泊したのがトニカコタンという。碑は厚真神社参道入り口近く「まつうら橋」の際にあった。(勇払郡厚真町字富里179−1)
]]>丸瀬布上武利に有る神居滝簡易郵便局の北側にかつてムリイ駅逓所だった施設の一部(二階部分)が住宅として活用されていた。上藻別駅逓はこのデザインを一部採用しているというが、トタンが張られ外側からでは元型が正確にはわからないが、美深の駅逓に似ている印象。現在は無住の館となっているが管理はされている様子だが非公開です。ここはかつて湧別アイヌ一族のコタンがあった所で近くにカムイコタンの碑が有る。◇現住所:遠軽町丸瀬布上武利
]]>道道251号線沿いに駅逓制度が終了した昭和22年迄残っていた駅逓で現存する旧駅逓舎。道道の改修工事の時に若干移動し、一部改築されて残されたという。駅逓の特徴的なデザインとはやや異なるが当時の様子がうかがえる。ただ痛みは相当で俗に言うナマコ鉄板で覆われたりシャッターの付設などかなり様変わり、一応駅逓を示す標柱が立っている。◇現住所:士別市温根別北18線
]]>現役でアパートとして使用されている美深町に残された明治唯一の建築物らしい、その意味ではかなりインパクトはある。ただ駅逓舎としてみると外観は化粧トタンに覆われ、窓はアルミサッシに変わっていて、かつての駅逓の面影は残しているも、その形状から駅逓を想像することは出来ない。国道沿いで美深町北四丁目の信号前の角地で、吉田鉄工場に隣接する。昔は駅逓の看板が有ったと云うが今は何もない。昔の話を聞きたければ宮岡食堂で聞かれるとよい。ここのラーメンはお勧めです。
]]>明治19年に上川郡農作試験所事務所として建設され、明治20年に樺戸監獄署に移管された後、明治22年に官を辞して、明治22年人馬継立兼宿泊所の設置を道庁に請願し岩見沢、奈井江、空知太、音江法華、忠別太の5駅逓の一括取扱人に任ぜられ、第一美英舎から第五美英舎と命名し営業を開始した。認可を受けた高畑利宜貸し下げられの忠別太の建物は第一美英舎となる。忠別太第一美英舎は鉄道開通で明治36年の駅逓廃止となる迄まで物資輸送と交通の要であった。建物は上川地方に現存する最古の建物で、昭和62年解体調査。昭和63年現在地に復元展示される。また旭川地方気象台の前身で、明治21年開設の上川二等測候所でも有るが、明治23年に独立移転している。◇現住所:旭川市神居1条1丁目 1-30
]]>斜里場所の場所請負人であった藤野家の番屋がもとになった駅逓で、斜里から越川を経て峠越えで標津、別海を経て根室に結んだ。旧駅逓は番屋形式の駅逓だったようで、市街東部の星印刷所向かいに建物が現存しているが補修を繰り返し昔の面影はあまり残っていない、民営の倉庫として使用されており内部は非公開です。昭和4年の鉄道開通で駅逓所廃止。知床博物館・学芸員のお話では運営の実態がよく分かっていないとの事だった。近い位置に「シャリ運上屋(会所)跡」がある。いずれも知床博物館から徒歩圏内です。
]]>標茶の塘路駅近く旧釧路集治監本館(標茶町郷土館)の右横に塘路駅逓が復元保存され夏季限定で中をオープンしている。旧塘路駅逓はかつて塘路湖畔漁業番屋、越善啓作宅だったもので、標茶町内にあった14駅逓のうち唯一現存する建築物であり標茶町指定有形文化財。旧塘路駅逓は開駅から40年ほど駅逓として活用されていが鉄道開通のため廃駅となった。二代目取扱人の越善啓作は遠矢駅逓所の四代目取扱人としてもその名がある。番屋形式の駅逓はここと斜里だけと思うが、公開されているのは塘路駅逓だけ。◇所在地:北海道川上郡標茶町字塘路
]]>大正5年10月に現上武佐地区に官設駅逓所として開駅、昭和2年に武佐中央地区に移築。駅逓所の移築に合わせて、駅逓所建造物の右側に木造2階建ての泊施設宿が併設される。昭和6年に武佐官設駅逓所が廃止となり、伊藤正信氏に無償付与され以降は民営駅逓所として運営され、昭和11年に土田有一氏に所有となる。国鉄標津線の開通により上武佐地区にふたたび移築、駅逓所は廃止。昭和12年から移築した駅逓所を活用し「土田旅館」営業開始、昭和60年廃業。平成13年に所有者が代わり大正11年建築の駅逓所部分は解体され、昭和2年に併設された宿泊施設部分が一般住宅として活用されている。中標津町で最古の建造物で国の「登録有形文化財」です。◇所在地:標津郡中標津町字武佐957-6 ※個人住宅・非公開
]]>沼田町の国道275号線沿いにあるで、明治27年(1894)に開設され、明治33年(1900)に官設の駅逓となり、大正5年に廃駅となっている。官設駅逓所は外観と間取りが類似するのが普通だが、仁多志別駅逓所は切妻屋根で、白漆喰塗りの真壁、竪繁格子、1階前面の蔀戸などがある「セガイ造り」という手法で建てられた歴史的建造物で、北海道内に現存する駅逓のうち旧態をとどめた数少ない遺構の一つであり昭和46年に道指定有形文化財に指定される。開設地は仁多志別ですが、本願寺農場用地に位置していたので一般には「本願寺駅逓」と呼ばれた。隣は北竜地区活性センターで駐車スペースも十分、見学は可能だが管理人は常駐してません。バス停は「本願寺前」。◇現住所:雨竜郡沼田町字北竜第1
]]>基本的にはXHTMLのサイトのタグ書き換えで追加したのはheader、nav、section、article、footerの5種類。HTML5化するメリットを考えると外せないと思われるタグに限定した結果。レイアウトではベンダープレフィクスを付ける必要が有るbox系プロパティは使用せずfloatでレイアウト。
問題は画像表示に使用していたlightbox、jqueryのプラグインとなったv2.5でも「rel=lightbox」という属性のままなのでHTML5ではそのまま使えない。HTML5で利用するため「class=lightbox」なるように書き換えたが、そうするとIE6では動かないというが、その辺は割り切った。ただサイズの大きな壁紙などではlightbox v2.5では使い勝手が悪いのでlightbox_plus改良版を使用した。lightbox_plusはHTML5に対応していないのでやむを得ず壁紙コーナーはXHTMLとしている。
レイアウトはHTML5と同じCSSなのでsectionなどのタグはdivとする事で実際は微妙に異なるのだが基本的には同じレイアウトが可能。1番の問題は各種ブラウザで確認ができる環境がないことかな。そのためhtml5.jsで古いIEでもHTML5を使えるようにした事。IE9.jsでIE9以前のIEを強制的にW3c標準にしたこと、これでCSSが安定して使えるというが、この二つが組み込まれたことでIEの表示速度は確実に遅くなった感じが有る。後数年でその必要もなくなるのかもしれないが・・・
現在XHTMLでサイトを作成している方にはHTML5化は割と容易にできると思うが、周辺の環境はまだ不十分な印象で趣味サイトなどでは良いと思うが、見やすい事、早いことが優先される地自体などの公式サイトなどでは相応の技術力がないと難しいかな。
]]>かつて開拓使により北海道開拓のため重要な道路に駅逓所が設置され、そのなかで東洋一と言われた鴻之舞金山の開発に伴って上藻別にも駅逓が設置されました。上藻別で復元された旧上藻別駅逓所は紋別市中心街から南約23kmの上藻別にあります。旧上藻別駅逓所は大正15年に官設駅逓所として開駅、昭和9年に増築されている。初代駅逓取扱人は高地登氏。入母屋造鉄板葺平屋建(鉄板葺は後の事で最初は柾葺き)の本館と寄棟造鉄板葺2階建の増築部からなり、外壁は下見板張で、二回窓には装飾的な額縁が取り付けられ、内部は中廊下式で客室を配置、紋別地方に現存する駅逓家屋(一般開放している施設)で、戦前の北海道独特の様式を残す代表的な古建築物。上藻別駅逓は昭和15年、駅逓業務廃止の後は昭和24年まで高地旅館として営業した後住宅として使用された。その後上藻別駅逓保存会の手により修復され、現在は開拓資料や鴻之舞鉱山資料などを展示公開、当時の鴻之舞を知る上では大変貴重な存在。展示スペースは駅逓本館内と別棟の他、三塔のサイロを使用した展示スペースを確保。鴻之舞鉱山坑道で使用された機動トロッコなども屋外展示(屋根有り)してあり貴重。展示物に関しては他の駅逓施設とは比較にならないほど充実している。
◇所在地:紋別市上藻別 上藻別駅逓保存会
◇TEL:0158-26-5110
◇GPS:N44°11’17.1” E143°20’093”
その他の駅逓に関しては公式サイトの駅逓所特集をご覧ください。
大正9年、官設駅逓として開駅、取扱人は佐野準一郎氏。昭和11年廃止、建物は佐野氏に無償譲渡され住居として使用されていた。昭和45年、佐野氏の子息が住宅新築を機に留辺蘂町に寄附。留辺蘂町は駅逓開設時の様子を復元、開拓史料も展示し、開拓資料館として開放。武華駅逓は国道39号線沿い、温根湯温泉の西8km、国道を挟んで滝の湯温泉が220mと至近距離にある。◆入館希望者は前日までに留辺蘂教育事務所=0157-42-2723=にご連絡を。急な入館希望の場合は向かいの「工房駅逓」か、資料館奥の小泉さんにお声かけください。
◇設置年:大正09年01月 廃駅年:昭和11年11月
◇初代取扱人:佐野準一郎
◇昭和59年解体修復
◇開館日:金曜日・土曜日
◇開館時間:9〜17時 ◇閲覧料 無料
◇現住所:北見市留辺蘂町滝の湯
◇GPS:N43°43’54.0” E143°25’28.3”
奥行は根釧原野の中でも歴史が古く、別当賀・厚床方面と別海の中間にあり上風連方面への分岐点で交通の要衝でもあった。奥行駅逓所は別海町に設けられた9ヶ所の駅逓所のなかで唯一現存する建物で当地草分けの山崎藤太郎(山崎藤次郎)氏を取扱人として明治43年に開駅され、別海町では別海駅逓所、遠太駅逓所、春別駅逓所に次いで4番目の駅逓、交通網の整備が進んだ昭和5年に廃駅となっている。駅逓舎は大正期に増築され、一部2階建てという駅逓制度最盛期の姿を伝え、駅逓で使用されていた調度品や文書、厩舎や道路跡も残り、周辺環境も当時の状態保存が良好で国指定史跡となった。また隣接して樹齢500年というミズナラの巨木がある。
◇開館:五月から10月・休館日:第1と3月曜日・期間中管理人常駐 ※旧奥行臼駅逓所は平成27年より一般開放を中止して解体修復工事を開始、平成31年より一般開放再開予定とのこと。◇別海町別海奥行15-12
◇所在地:別海町奥行臼15-12